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玄猷寺歴史館 |
「玄猷寺歴史館」という名目で、当寺の歴史を紹介するページです。
当寺の沿革
草創以前は草庵で、弘安2年(1279年)に建立とされる石碑がかつての境内墓地にあったという。開山は、臨済宗天龍寺派の開祖夢窓国師(疎石、1275~1351)と伝えられる。暦応2年(1339年)に、夢窓国師が後醍醐天皇の菩提のため、知多に順錫した際に当寺を本格的な寺として建設し、勅願所としたという。ちょうどこの頃、室町幕府を開いた足利尊氏が、夢窓国師の進言で、全国に安国寺利生塔を建立して、後醍醐天皇と兵士の霊を弔ったというので、当寺はその一刹かと思われる。寺名については、夢窓国師が没後に、後円融天皇から賜った「玄猷」という国師号に由来している。
その後、慶長5年(1600年)4月に加木屋村(現在の東海市加木屋町)の法幢山普済寺の五世在室岱存大和尚によって曹洞宗に改宗される。普済寺の末寺となり、以後は平僧地となっていたが、慶応3年(1867年)9月に大火によって全山を焼失してしまう。
明治33年(1900年)9月に川名(現在の名古屋市昭和区川名本町)の太平寺十三世住職の玄機大雄大和尚によって「法地」に格上げされる。玄機大雄大和尚が二世住職となり、自身の本師である玉山徳瑞大和尚が法地開山となる。
伽藍の変遷
焼失前の伽藍については、江戸時代に書かれた若干の記録(『尾張徇行記』・『張州雑志』)がある。当寺の門に、現在の東海市大田町城山にあった木田城の古門を使っていたという。また、「吉祥山」という山号の観音堂があり、これがかつての臨済宗の寺跡であったとある。
焼失直後については、何も記録が残されていない。近所の古老によれば、何らかの古い建物が移築され、寺院としては運営されていたようであるが、住職は他所から通い、住める状態ではなかったという。
しかし、廃仏毀釈という時代背景にあり、近所にあった神護山三盛庵という尼寺が廃寺になる中、荒廃していた当寺が廃寺の対象にならなかったのは、不幸中の幸いであったのかもしれない。もちろん、背後には当時の檀家の帰依があったと思われる。
その後、本格的な復興事業は、昭和9年(1934年)の弘法堂新築により開始されるが、太平洋戦争によって一時中断してしまう。戦後、昭和28年(1953年)から事業が再開し、普済寺の近くにあった医王山如意寺(廃寺)の本堂や庫裡が移築される。引き続いて、開山堂と位牌堂が建立され、また先代住職の晋山に伴い、豊明市の瑞応寺にあった書院が移築されるなど、伽藍は一時的に復興した。
しかし、境内整備と伽藍の老朽化に伴い、再度復興が計画され、理系の大学出身である現住職の構想に基づく配置・設計により、平成19年(2007年)から弘法堂を除くすべての伽藍の新築が相次ぎ、平成23年(2011年)に復興事業が完了した。
* 当寺に伝わる過去帳(天保年間新添で、明治以後にも追記されている)の序文をもとに作成。また、「玄猷寺研究室」のページの成果を反映している。
参考文献: 川口高風著 『熱田 白鳥山 法持寺史』(白鳥山法持寺蔵版2012年)
知多四国霊場会監修 『遍路 知多めぐり ハンディ版』(樹林舎2012年)
熊倉功夫・竹貫元勝編『夢窓疎石』(春秋社2012年)

天保12年(1841年)、焼失前。
『東海市史 資料編 別巻』(愛知県東海市1984年)所収の古地図より(玄猷寺研究室「古文書に見られる玄猷寺」を参照)。

昭和10年代頃(当寺所蔵アルバム写真)。
手前(左)が現在の弘法堂、隣に旧々本堂と旧々庫裡。

昭和60年代頃(知多四国霊場会『知多四国めぐり』2003年第6版より)。
手前(左)が現在の弘法堂、隣に旧本堂(詳細は、玄猷寺研究室「旧伽藍について」参照)。

現在。
境内拡張に伴い、本堂と庫裡は、新たな区画に新築され、以前からあった弘法堂は、新本堂の隣に修復、移築された。
上記の写真のとおり、意外にも佇まいは、今も昔も変わらない。
玄猷寺歴住、没年月日
(曹洞宗以後)
以下、確認できている範囲で、当寺の歴住を挙げる。
草創開山 普済五世 在室岱存大和尚 慶長十八年(1613年)七月二十三日
當山二代 月溪祖泉和尚 万治二年(1659年)二月十四日
三代 祥雲卓瑞和尚 寛文三年(1663年)十二月二日
四代 竺雲天重和尚 寛保三年(1743年)八月二十二日
五代 來鳳壽傳和尚 正徳三年(1713年)三月十二日
六代 澤道榮天和尚 寛保三年(1743年)九月十三日
七代 逸峯榮秀和尚 安永二年(1773年)三月十三日
八代 祥山本瑞和尚 文政七年(1824年)四月二十五日
九代 惠學本奘和尚 文政四年(1821年)五月二日
十代 覺法圓了和尚 文政十二年(1829年)十二月二日
十一代 照山泰亮和尚 安政二年(1855年)十一月二十一日
十二代 ?
十三代 大殊五世 聴授要門大和尚 明治三十七年(1904年)九月二十四日
法地開山 太平十一世 玉山徳瑞大和尚 明治四十年(1907年)十月十日
當山二世 太平十三世 玄機大雄大和尚 昭和十二年(1937年)二月二十二日
三世 龍源徹定大和尚 明治四十年(1907年)十一月一日
四世 広憧十六世 秀岳祥山大和尚 昭和二十七年(1952年)十一月二十日
五世 中興大岳弘成大和尚 平成七年(1995年)三月二十二日
* 上記の歴住については、2011年6月16日現在の情報(詳細は、玄猷寺研究室「玄猷寺の歴住調査報告 改定」「玄猷寺の歴住調査報告2 改定」を参照)。
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寺宝「聖徳太子像」
延暦寺の鶏足院の寺宝で、織田信長が比叡山焼き討ちの際に羽柴筑前の足軽が救い出し、故郷へ持ち帰り、納めたという言い伝えがある(詳細は、玄猷寺研究室「寺宝、聖徳太子像」を参照)。
『東海市史 資料編 別巻』(愛知県東海市1984年)によれば、かつて近所にあったもう一つのお寺、神護山三盛庵の本尊となっていたそうである。三盛庵は、玄猷寺と同じく曹洞宗のお寺で、加木屋町の普済寺の末寺である。
恐らくは、明治年間の廃仏毀釈によって三盛庵が廃寺になった際、玄猷寺に持ってこられたものと思われる。
余談ながら、『東海市の民話』(東海市教育委員会1992年)の中に「さんじょ庵のお地蔵様」という民話があるが、「さんじょ庵」というのは、三盛庵のことである。民話の中で登場するお地蔵様も、後に玄猷寺に持ってこられたというが、定かではない。
追記
足軽の言い伝えとは、別の説もある(詳細は、玄猷寺研究室「寺宝、聖徳太子像の別説」を参照)。 |
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