ヘッダーイメージ 本文へジャンプ
玄猷寺研究室

 このページは、当寺の歴史に興味を持つ当HP作成者による自由なページです。当寺の歴史を知ることを目的としています。東海市の郷土史を中心に、活字資料から典拠を明確にし、それなりに信頼性のあるものを目ざしております。

 
2023年01月08日 19時59分

墓地の手洗鉢
 久しぶりの投稿になります。これまで、当寺に関する少なくとも活字になった郷土資料は、管見の限り、新たな発見はありませんでした。ところが、その後の境内整備でわかってきたことがありましたので、ここで紹介いたします。
 墓地の水汲み場になっている手洗鉢ですが、意外に古いものだということが分かりました。

 東海市教育委員会発行の『東海市の石造物――市内石造物総合調査業務報告書』(2012年)のp.30に紹介されております。それによれば、刻字があり、享保9年(1724年)となっているようです。当HP作成者も何か刻字されていることは、既に気づいておりましたが、風化が激しく確認できておりませんでした。
 このページ(玄猷寺研究室)のこれまでの成果を踏まえますと、當山六代の澤道榮天和尚(*1743年没)の時代に造立されたものだということがわかります。ちなみに、以前投稿した「玄猷寺の歴住調査報告 改定」では、この六代目の和尚様は、「中興」という称号が墓石に刻まれていることが確認できております。ですので、まさにその功績を伝えていると言えるでしょう。

2013年02月07日 21時00分
夢窓国師と玄猷寺
 依然として夢窓国師との関係は、謎のままですが、唯一、夢窓との関係を示す記述が、知多四国霊場会編、冨永航平著『知多四国八十八所遍路』(朱鷺書房2000年)のp.181に紹介されています。以下は、その引用です。

 「南北朝両朝が終焉、室町幕府を開いた足利尊氏は、夢窓国師の進言により、全国に安国寺利生塔を建立して、後醍醐天皇および兵士の霊を弔った。玄猷寺もその一刹か。」

 この安国寺利生塔の設置については、夢窓国師(疎石)の伝記類、例えばごく最近出版された熊倉功夫・竹貫元勝編『夢窓疎石』(春秋社2012年)のpp36-37でも紹介されています。この本によれば、安国寺利生塔の設置の時期として、足利直義が主導しての実施が暦応元年(1338年)頃からとなっています。
 当HPの「玄猷寺縁起」で紹介したとおり、当寺は暦応2年(1339年)に後醍醐天皇の菩提のために夢窓国師が建立したと伝えられています。時期的なことも踏まえ、推測の域は出ないにしても、『知多四国八十八所遍路』の記述は、意外と的を得ているのかもしれません。夢窓国師が建立に直接関わったかは、確証がありませんが、夢窓国師の統率力によって、その法系を継いでいた僧侶が、主導していたことは想像できます。
カテゴリー:資料
2012年11月09日 07時00分
法持寺の位牌
○ 法持十一世 悦堂禅大和尚禅師
   元禄十三年三月二十四日

 昨年、愛知学院大学教授で法持寺住職の川口高風先生により、当寺に安置されていた上記の位牌の身元が確認されました。その内容が遂に以下の文献に掲載されました。
 川口高風著『熱田 白鳥山 法持寺史』(白鳥山法持寺蔵版2012年)。
カテゴリー:資料
2011年09月25日 00時32分
寺宝、聖徳太子像の別説
 足軽の話とは、まったく別の説があります。これまで、ほとんど一般に紹介されることはありませんでしたが、ここで紹介したいと思います。情報の典拠は、『郷土の史跡と文化財』(愛知県知多郡上野町教育委員会1969年)のp.22です。

 この像には、「延宝七未(1679年)八月八日 願主 七エ門 婦夫菩提也」という銘文が入っているようで、願主が亡くなった妻の美しかった姿が忘れられず寄進されたものだろうという説があるようです。

 ちなみに当HP作成者は、実際に銘文があるかどうかは未確認です。しかしながら、年月日が入っているとすれば、こちらの方が信憑性があるかもしれません。もしそうであれば、比叡山から持ってきたという足軽の話は、あくまで伝説と捉えられ、しかしこういった説話の背景には、何か当時の人の思いがあったことが察せられます。
カテゴリー:
2011年05月28日 23時45分
玄猷寺の歴住調査報告 2 改定
 玄猷寺の歴代住職について、今一度、位牌を確認しましたところ、新たな発見がありました。当寺の歴住の一部に訂正を加えなくてはならない可能性が出てきました。とりあえず、結果は以下のとおりです。

草創開山 普済五世 在室岱存大和尚 慶長十八年(1613年)七月二十三日
當山二代   月溪祖泉和尚 万治二年(1659年)二月十四日
   三代   祥雲卓瑞和尚 寛文三年(1663年)十二月二日
   四代   竺雲天重和尚 寛保三年(1743年)八月二十二日
   五代   來鳳壽傳和尚 正徳三年(1713年)三月十二日
   六代   澤道榮天和尚 寛保三年(1743年)九月十三日
   七代   逸峯榮秀和尚 安永二年(1773年)三月十三日
   八代   祥山本瑞和尚 文政七年(1824年)四月二十五日
   九代   惠學本奘和尚 文政四年(1821年)五月二日
   十代   覺法圓了和尚 文政十二年(1829年)十二月二日
   十一代 照山泰亮和尚 安政二年(1855年)十一月二十一日
   十二代    ?
   十三代 大殊五世 聴授要門大和尚 明治三十七年(1904年)九月二十四日
法地開山 太平十一世 玉山徳瑞大和尚 明治四十年(1907年)十月十日
當山二世 太平十三世 玄機大雄大和尚 昭和十二年(1937年)二月二十二日
   三世 龍源徹定大和尚 明治四十年(1907年)十一月一日
   四世 広憧十六世 秀岳祥山大和尚 昭和二十七年(1952年)十一月二十日
   五世 中興大岳弘成大和尚 平成七年(1995年)三月二十二日




「當山二代、三代の見直し」
 これまで當山二代とされてきた「聲外自雲和尚」ですが、位牌を確認したところ「當菴前住~」となっており、しかも裏には「五代」と書かれておりました。前回の記事で既述の通り、過去帳には名前が見当たりません。「當菴~」(菴→庵)とあれば、三盛庵の歴住の可能性があります。もし、そうであれば、過去帳に見られる「月溪祖泉首座 當寺二代」が本当の當山二代ということではないかと推測できます。
 また、當山三代とされてきた「照應恩光和尚」は、位牌にはただ「三代」としか刻まれておらず、「當山」なのか「當菴」なのかわかりません。そのため、過去帳の記載を尊重すると、本当の當山三代は「祥雲卓瑞首座 當寺三代」であることになります。


「三盛庵の歴住」
 これまで掲載した記事を反映すると、三盛庵の歴住もだんだん推測が可能となってきます。結果は、以下の通りです。

開山 來天量撮和尚 承応元年(1652年)十月三日
當菴二代(世?) 安山秀全首座(和尚?) 年月日不詳
   三代(世?) 照應恩光和尚 年月日不詳
   四代(世?) 無道徹参首座(和尚?) 年月日不詳
   五代(世?) 聲外自雲和尚 年月日不詳
   六代(世?) 享峰養元首座(和尚?) 年月日不詳

 當菴二代と四代は、本ページの初回の記事に掲載した「謎の位牌」の記事にあった「安山秀全首座」と「無道徹参首座」が当てはまるかもしれません。両人とも没年月日は不詳ですが、「謎の位牌」の「追記」で既述の通り、寛政5年(1793年)の記事に当時の三盛庵のお坊さんとして「無道徹参首座」の名前が見られるので、年代的に考えれば、四代(世?)がこの人物ということが推測できます。すると、二代(世?)は「安山秀全首座」ということになります。


「當山四代について」
 當山四代についてですが、「當寺前住 竺雲天重首座」 と過去帳にある人物ですと、寛保三年八月二十二日の年代から、既述の通り、歴代住職の順番からすると前後しますが、當山五代が早く遷化されたと仮定すれば、これで確定できるかもしれません。

 ということで、久しぶりに大きな進展がありました。これで、とりあえずは曹洞宗以後の当寺の歴住が大方明らかになったことになります。近い将来、朝課(朝のお勤め)の回向(歴住の読み上げ)を改定し、本堂落慶時に新調した位牌を作り変えなければならなくなりそうです。
 今後、臨済宗であったと考えられる時期のことも調べたいと考えておりますが、今のところ何も情報を得ていません。
カテゴリー:資料
2011年05月06日 22時20分
玄猷寺の歴住調査報告 改定
 玄猷寺の歴代住職について、調べてみました。残されている位牌、過去帳(恐らく明治以後の写本)、墓石を基に、川口高風編『愛知県曹洞宗歴住集覧』(プレコム1995年)の文献を参照しております。以下、名前と没年月日です。

草創開山 普済五世 在室岱存大和尚 慶長十八年(1613年)七月二十三日
當山二代   聲外自雲和尚  ?
   三代   照應恩光和尚  ?
   四代   笠雲天童和尚  ?
   五代   來鳳壽傳和尚 正徳三年(1713年)三月十二日
   六代   澤道榮天和尚 寛保三年(1743年)九月十三日
   七代   逸峯榮秀和尚 安永二年(1773年)三月十三日
   八代   祥山本瑞和尚 文政七年(1824年)四月二十五日
   九代   惠學本奘和尚 文政四年(1821年)五月二日
   十代   覺法圓了和尚 文政十二年(1829年)十二月二日
   十一代 照山泰亮和尚 安政二年(1855年)十一月二十一日
   十二代    ?
   十三代 大殊五世 聴授要門大和尚 明治三十七年(1904年)九月二十四日
法地開山 太平十一世 玉山徳瑞大和尚 明治四十年(1907年)十月十日
當山二世 太平十三世 玄機大雄大和尚 昭和十二年(1937年)二月二十二日
   三世 龍源徹定大和尚 明治四十年(1907年)十一月一日
   四世 広憧十六世 秀岳祥山大和尚 昭和二十七年(1952年)十一月二十日
   五世 中興大岳弘成大和尚 平成七年(1995年)三月二十二日


 以上のようになりましたが、草創開山、當山四代~七代、十二代の位牌はありませんでした。それ以外の當山八代以下は、位牌がありました。このうち、當山九代の位牌に慶応年間の大火の事と、それによって作り直したということが記載されていました。
 お墓は、當山二代、五代~十一代、三世~五世が確認できました。この中の1つの発見として、當山六代のお墓に「中興」という字が刻まれていました。これは、位牌には刻まれていないので、歴史の闇に埋もれた新事実です。
 五代以下は、過去帳にも記載があり、墓石の年月日(風化によって判読できないものも多数あり)とも一致していました。

「過去帳に見られる謎の二代、三代」
 過去帳に以下の記載がありました。

「月溪祖泉首座 當寺二代」 萬治二亥年二月十四日
「祥雲卓瑞首座 當寺三代」 寛文三子年十二月二日

 當山二代、三代と名前が見当たらないのですが、代わりに上記の名前があります。誰のことなのか全く不明です。


「不確定な墓石」
 今回の調査で、2つの不確定な墓石を見つけました。そのうちの1つは、風化で全く判読できませんでしたが、うっすら「明和八年八月」と読めました。
 もう1つは、以下のようになっています。

「當寺前住 竺雲天重首座」 寛保三年八月二十二日

 過去帳でも同様の記載が確認できました。當山四代のお墓と思いたいところですが、上記の文献で「笠」⇔「竺」、「童」⇔「重」のような字の違いが見られることと、過去帳に「當寺弟子」と書かれ、同年に六代が亡くなっていることから、順番的に合わないので、別人の可能性があります。


「歴史の闇に埋もれたお墓」
 歴住以外に、以下の墓を発見しました。

「雄峯天倫首座」 享保十四酉年八月十六日

 これは、位牌も残されていなく、全く未確認のお墓でした。不思議に他の墓石よりも風化が少なく、早く見つけてほしいと言わんばかりに、字も比較的はっきりしていました。幸い、過去帳にも、同年月日に記載が確認できました。また、そこには「榮天弟子」となっていました。どうやら當山六代の弟子のようです。まさに、歴史の闇に埋もれたお坊さんの生きた証のようです。近い将来、位牌を作ってあげたいものです。
カテゴリー:資料
2011年01月14日 16時11分
神護山 三盛庵
 姫島のもう一つのお寺、三盛庵についての情報です。当寺の寺宝「聖徳太子像」の記事でも触れましたが、現在は廃寺でかつてこの太子像があったお寺です。前回の記事に続いて、同じく『尾張徇行記 第6巻』(名古屋市蓬左文庫編、愛知県郷土資料刊行会1976年)のp.164と、『張州雑志 第一巻』(愛知県郷土資料刊行会1975年)のp.403に、このお寺についての簡単な情報を得ることができました。
 それらによれば、確かに曹洞宗で加木屋町の普済寺に属していたようです。また後者の文書には、本尊の聖徳太子の作者は不詳(「作不知」)で、開基が「唯春長光座元」、開山が「來天量撮和尚」となっていました。恐らくこの太子像が現在、当寺の寺宝となっているものと思われます。開基、開山ともに、「年月不知」となっています。
 ここで一つの発見がありました。開山については今のところ不明ですが、開基は当寺に位牌が残されていました(ただし、位牌は「~長公」となっていました)。位牌の裏側には、俗名が書かれており、「姫嶋村 右衛門九郎」となっています。「姫嶋村~」というのは、現在の姫島のことです。「~右衛門九郎」というのは、鶏足院にあったとされるこの太子像を持ってきた羽柴筑前守の足軽本人の名前と一致します。また清水寺(東海市荒尾町)所蔵の『大念仏虫供養縁起』(『東海市史 資料編 第一巻』(愛知県東海市1971年)の翻刻)にも、俗名が「衛門九郎」となっていますが、この人物の法号を、「唯春長公」(この文書も「~光」ではなく「~公」)としています。当寺の位牌の状態が比較的きれいなので、この言い伝えを基に後年作られたものである可能性もあります。
 いずれにしても、言い伝えの「太子庵」というのは、文書類にないことから、この三盛庵のことを指していたのでしょう。『大念仏虫供養縁起』にも「衛門九郎」が建てた草庵は、その当時の三盛庵のことであると伝えられていたことが書かれています。

「追記」
 開山の「來天量撮和尚」についてですが、『東海市史 資料編 第二巻』(愛知県東海市1974年)のp.345に翻刻されている『村方調宝記』の中の普済寺の歴住に名前が見られました。普済寺の八世で「来天量撮和尚」とあります。次のように命日も記されていました。「承応元壬辰十月三日」。「來~」と「来~」のように漢字表記の違いがありますが、三盛庵が普済寺の末寺だということを考慮すれば、同一のお坊さんと判断できます。

「追記(2)」
 当寺になんと「來天量撮和尚」の位牌を発見しました。文字がほとんど消えてしまっていて、のっぺらぼうの状態でしたが、光の加減でよく見たところ、わずかに確認できました。年月日までは、確認できませんでした。
カテゴリー:資料
2011年01月11日 14時05分
古文書に見られる玄猷寺
 翻刻されたものですが、『尾張徇行記 第6巻』(名古屋市蓬左文庫編、愛知県郷土資料刊行会1976年)pp164-165に、当寺についての記載がありました。これは、江戸時代中期頃に書かれた記録です。
 それによると、当寺の門は、木田城(現在の東海市大田町城山にあったお城)の古門が用いられ、門の入側に楠の古樹があり、観音堂の脇士に不動と毘沙門の両像があることが書かれています。また、「夢想自画像」(恐らく「夢窓~」の誤り)、多くは応永年中に書写された「般若ノ残経数巻」、熊野から来たといわれる「十六善神像」があるとされています。曹洞宗の開山の名前も書かれています。「在室存座、元~」となっていますが、恐らく「在室存座元、~」の誤りでしょう。それから、観音堂の山号は「吉祥山」で、「済家」の寺の廃跡だということも書かれています。「済家」というのは、辞書類で調べてみますと「臨済宗」のことのようです。また、この他の記事には、「~草創ノ由来ハ不伝、~」とも書かれています。当時、既に歴史的なことは、わからなくなっていたようです。
 他にも、『張州雑志 第一巻』(愛知県郷土資料刊行会1975年)という文献(文書の復刻版)pp401-402にも類似した記事が見られます。上記の文書と同時期頃に書かれたものだと思われます。なお、この文献は翻刻ではなく、墨字がそのままコピーされています。
 これには、「知多郡巡礼二十二番ノ札所也」とあります。現在の「知多西国」の札所のことでしょう。観音堂の観音は行基の作となっています。また、濃州の「圓城寺」という曹洞宗のお寺に属していることが書かれていますが、これはどこのお寺のことを指しているのか、わかりません。折を見て検討してみたいと思います。
 以上、これらの古文書には、興味深い記事がたくさん見られます。いずれも慶応3年の大火により焼失してしまったと思われます。楠の古樹も、現存しないと思われます。昨年、伐採した巨大な楠は、恐らくこの文書に見られる楠とは、別のものと考えられます。文書の楠は「門の入側」とありますが、伐採した楠は建物の裏側(北側)で、通常考えられる「門の入側」とは反対側に位置します。また、この伐採した楠は聞くところによると、まだそんなに古くはないようです。
 この他に、『東海市史 資料編 別巻』(愛知県東海市1984年)に付いている天保年間の古地図には当寺の佇まいを見ることができます。簡略な絵ですが、大きく3つの建物があり、向かって左側から格子窓のある御堂、中央に横長の御堂、右側に庫裡のような建物という風になっています。これは、偶然にも現在の復興しつつある当寺の佇まいに似ています。上記の文書の記述と照らし合わせて考えると、恐らく左から弘法堂、観音堂、庫裡なのでしょう。



 まだまだ当寺の古(いにしえ)の記録がどこかに残されているかもしれません。今後も探索していきたいと思います。
カテゴリー:資料
2010年12月28日 22時52分
寺宝、聖徳太子像
 「玄猷寺縁起」に載せた寺宝「聖徳太子像」について、『文化財調査委員報告書 第6集』(東海市教育委員会1981年)より新たな情報を得たので、紹介いたします。

 鶏足院にあったとされるこの「聖徳太子像」を持ってきた羽柴筑前守の足軽というのは、「うもんくろう」という姫島村出身の人物だそうです。当寺所蔵の阿弥陀如来縁起録には「右門九郎」、清水寺(東海市荒尾町)所蔵の大念仏虫供養縁起には「衛門九郎」、観福寺(東海市大田町)所蔵の虫供養由来には「右衛門九郎」と表記されていて、これらの古文書によると、比叡山焼き討ちの際、山域国坂本の作道という処で、あやしき僧より「聖徳太子像」を奪い取って持ち帰ったそうです。
 先代の当寺住職の証言では、「うもんくろう」は帰国後、この尊像を祀って太子庵という寺を作ったということで、後に尊像は三盛庵に行き、明治初年の廃仏毀釈で当寺に持ってこられたということです。隣地の古老によって、昔、富木島町北太子という場所に太子庵という寺があったという証言もあり、また現在その地に残されている五輪の石塔(五輪さん)が「うもんくろう」の墓だという伝承もあるそうです。ところが、古文書には、当寺と三盛庵はあっても、太子庵という寺があったことは記されていないようです。

 当HP作成者も太子庵の事は聞いたことがありますが、今回の読んだ文献から、恐らく太子庵というのは三盛庵のことではないかと推測しています。ただ「うもんくろう」については、単なる伝説上の人物の可能性があります。その点、すべてが史実とは限らないということを考慮しなければなりません。まだ上記に挙げた古文書を実際に読んだわけではないので、また折を見て、読んで検討してみたいと思います。
 
カテゴリー:資料
2010年10月29日 20時14分
「謎の位牌」
 旧本堂、開山堂(位牌堂)の取り壊しの際、現住職が歴住の位牌を整理されましたところ、歴住とは別に、以下の5つの位牌が残されていました。

○ 當菴開基 大歓空貞操明喜法尼
   明治六年二月十四日
○ 安山秀全首座
   年月日記載なし
○ 當菴前住 無道徹参首座
   年月日記載なし
○ 當菴六世 享峰養元首座
   年月日記載なし
○ 法持十一世 悦堂禅大和尚禅師
   元禄十三年三月二十四日

 いずれも、当寺にかつて何らかのご縁があったお坊さんたちの位牌と思われますが、詳細はまったく不明です。今回、大きな発見があったので、ここにご紹介いたします。

 上から5番目の悦堂禅大和尚禅師と書かれた位牌についてですが、「法持十一世」と書かれています。それを手がかりに探しましたところ、名古屋市熱田区に法持寺という曹洞宗のお寺があり、奇跡的にそのお寺の歴住について書かれた論文がありました。川口高風著『興隆期の法持寺について』(禅研究所紀要2005年)という論文です。

法持寺についての詳細 ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E6%8C%81%E5%AF%BA へのリンク

川口高風著『興隆期の法持寺について』 ↓
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004632125 へのリンク

 この論文によれば、法持寺の十一世は、「悦堂愚禅」となっていました。位牌には「愚」という文字はありませんが(恐らく、略されていると思われる)、元禄年間に法持寺の住持をしていたということで、位牌の年代と時期が重なります。この位牌と同一人物の可能性が出てきました。示寂年月日は、不詳としていますが、命日のみを3月29日と推定しています。位牌は3月24日で、この論文の推定命日とは異なりますが、日付的に近いためその可能性は大といえます。
 残念ながら、この論文からは「悦堂愚禅」と当寺の関係を示すような手がかりは、一切書かれていません。もしこの位牌と同一人物であれば、なぜ当寺にこの人物の位牌があるのかは、謎に包まれております。

 この他の位牌については、まったく不明ですが、「當菴~」とある位牌は、「菴」(菴→庵)という文字から寺宝「聖徳太子像」と同様、三盛庵から持ってこられたものではないかと思われます。
 また、境内のお墓を探索したところ、2番目の安山秀全首座と3番目の無道徹参首座のお墓を見つけることができました。お墓も三盛庵から移動してきたということも想像できます。残念ながら、長年の風化により、刻印された文字はほとんど見えず、年月日までは確認できませんでした。


「追記」
○ 當菴前住 無道徹参首座
   年月日記載なし

 上記の人物について、『東海市史 資料編 第二巻』(愛知県東海市1974年)のpp229‐230に翻刻されている『村方調宝記』の寛政5年(1793年)4月の記録、「奉願上候御事」によって、当時の三盛庵のお坊さんであったことがわかりました。文書には「徹参」とありました。
 やはり、位牌に彫られた「當菴~」(菴→庵)というのは、三盛庵のことであったようです。きっと現存するお墓も三盛庵から移動してきたのでしょう。
 ちなみに当時の玄猷寺のお坊さんの名前も記されていました。そこには、「祥山」と書かれています。歴住の中に「祥山本瑞和尚」というお坊さんがおります。位牌もお墓も現存します。位牌に書かれた年号からもこのお坊さんのことで間違いないでしょう。
 両人とも名前の下に花押があるようなので、肉筆の署名と思われます。


「追記(2)」
○ 法持十一世 悦堂禅大和尚禅師
   元禄十三年三月二十四日

 上記の人物についてですが、信じられないことに、既述の論文の筆者でいらっしゃる愛知学院大学教授で法持寺住職の川口高風先生ご本人より、「当記事を見ました」という連絡がありました。後日、位牌の確認のために来山され、没年月日の確定の見通しとなりました。先生ご自身が40年間探し求めていらっしゃったそうで、世紀の大発見です。現物の位牌は、川口先生の手で法持寺へ里帰りなされました。
 当研究室のページが、宗門の研究の一助となったことは、この上ない喜びです。(なお、今回の発見は、2012年10月に出版された川口高風著『熱田 白鳥山 法持寺史』(白鳥山法持寺蔵版)に掲載されました)。


「追記(3)」
○ 安山秀全首座
   年月日記載なし
○ 當菴前住 無道徹参首座
   年月日記載なし
○ 當菴六世 享峰養元首座
   年月日記載なし

 上記の人物についてですが、新たな研究の進展がありました。詳細は本ページの「玄猷寺の歴住調査報告 2 改定」をご参照ください。
 「旧伽藍について」

 境内伽藍整備によって役目を終えた建物について調べてみました。過去帳に、次のような記録が残されていました。

 旧本堂は、昭和28~29年(1953~54年)に加木屋町郷中にあった医王山如意寺(現在、廃寺、もともとの寺名は「如意庵」)の本堂を移築。続いて、旧庫裡が昭和29年に本堂と同じく如意寺より移築。
 旧開山堂、位牌堂は昭和31~32年(1956~57年)に建設。
 旧書院は昭和32~33年(1957~58)年に豊明の瑞応寺より移築。

「追記」
 如意寺(庵)については、『東海市史 資料編 別巻』(愛知県東海市1984年)に次のような情報がありました。
 「~かつて普済寺二世静室興安師が建立したが、昭和25年に玄猷寺(当寺)に買い取られ、その本堂とされた。寺号は普済寺に預けられ、ついに廃寺となった。同寺には枯山水の、名園とうたわれた庭もあったが、現在では住宅地と変わっている。」
 
カテゴリー:



作成者からの一言

 趣味的に、謎の多い玄猷寺の歴史を調査しております。
 このページは、現時点での情報です。新たな発見があれば、どんどん更新していきたいと思います。
 特に夢窓国師との関わりについてを知ろうとしております。



当HP作成者

プロフィール
 副住職。県内仏教系の大学非常勤講師。チェロ奏者。
 音楽大学の大学院(修士課程)修了後、仏教系の大学院(修士課程)に進学を機に、仏教音楽に興味を持つ。永平寺で修行後、九州の天台宗寺院で伝承される盲僧琵琶の研究を行い、母校の音大にて博士号を取得。

 形あるものは、いつかなくなるが、音楽はもともと形がない。こうしたことを踏まえ、音楽の可能性を追求したいと考えている。
フッターイメージ